体験談(2022)

体験談 Vol.8

JBTA会員の佐藤剛己です。Zoomミーティングには不精してばかりですが、自身の体調のことと併せて、夏休みの出来事を紹介します。


2020年6月、移住のつもりで2012年3月に渡ったシンガポールで膠芽腫が見つかりました。当時は失語症、失禁、度重なる頭痛があり、妻に連れられてRaffles Hospitalに駆け込み、その日のうちに入院、翌日手術となりました。幸いにも全摘できました。同時に、2019年のS状結腸がんの転移腫瘍が肺に見つかっています。同年7月に帰国、経緯を本にする予定でブログに一年書き続けたものの、お見せした旧知の出版社編集者から「商用出版には乗りません」と言われ、今では書く気力も失せてしまいました。


一方、体調は凄ぶるいいのです。まず四肢の麻痺がなく、てんかんもないので車の運転が従前通り可能です。仕事を続ける上での頭の回転も申し分ありません。今年6月に10年ぶりに車を中古で購入。妻も、年初に取った運転免許を携えて時折運転席に座っています。


電場療法を一時休んで車でこの夏、大阪と愛知県安城市を回ってきました。場所は妻の家族や友達に会う、吉本新喜劇を観るなど、それぞれ理由があってのことですが、それよりも帰国してできた初めての夏の旅行、しかも運転好きの私には車で回れたことが喜びでした。


続いては沖縄へスクーバ・ダイビングに行きました。私はライセンスを取って300本近く潜っているほどのダイビング・ファンです。取った直後の2002年には太平洋ミクロネシアにある「ジープ島」に2回も行き、その時購入した沈船地図のポスターは今の自宅にも飾っています。

絶対に子供たちをダイバーにすると意気込み、娘はシンガポールで1軒だけある日本人経営のショップでライセンスを取得。なかなか首を縦に振らなかった下の息子も、帰国後に「やっぱり取りたい」と言い出したので、心の中でガッツポーズをしながら、一緒に沖縄へ行きました。


ダイビングを実施するにあたり、あらかじめセカンドオピニオンを取ることは決めていました。Divers Alert Network. Japan(DANジャパン)という、ダイビング事故を医療面から支える世界団体の日本支部があります。リストから、ダイビングに詳しい脳神経外科医を都内に見つけ、今通院している主治医からの紹介状と脳の輪切り画像を手に、その病院に行ってきました。


診察室に入った時のことは今でも忘れられません。パソコンに映した画像と睨めっこしながら「う〜ん」と先生が唸っていたのです。「あなた本当に脳腫瘍?普通は体のどこかに麻痺が出るんだよね」と。結局、潜水は1日2本までなどいくつか約束を守ることを条件にOKを出してもらい、さらに沖縄でご縁のある別の脳外科医を「念の為」と紹介してくれました。直前に、ダイビングで著名なスント(本社フィンランド)のダイブコンピュータを修理に出していたので、先生からの言葉は本当に嬉しかった。


腫瘍持ちになって分かったことがあります。①同じ病名でも人によって症状は異なる、②大事にしたいものはそれぞれ違う、③命には限りがある、です。①は帰国直後に入院した、今通院する本院が成田空港そばにあるのですが、その病室で初めて感じました。当時、私のフロアは脳関係の疾患患者ばかりが入っていて、同室のお隣さんも脳腫瘍。半身に麻痺が残り、時折病室から自宅に携帯電話を掛けていましたが、会話を聞くたびに家庭内の事情が分かって居た堪れなくなりました。


②は数日前の通院で免疫療法室の看護師との会話で改めて気づいたことです。「それぞれ違う」というのは端的に言えば「自己決定権は自分にある」という意味です。私の場合、大事にしたいものは家族と、家族とのつながりです。夏のダイビングだったり、冬のスキーだったり。


肺の転移腫瘍の話をします。私の肺には小さな腫瘍が6こあります。大きいものは現在も10-20mmで推移しています。それぞれが別の「部屋」にあるので、先端医療を含めてどの治療法も「肺を痛める可能性が残る」とのことで、今の家族とのつながりを思うとこれ以上運動機能(肺活量)が落ちるのは勘弁してほしい。どれも決定打はなく、免疫療法で小さくしていく方法を今は選択しています。


③は、生死を左右する病気になった誰もが口にしますが、私は「人はいずれ死ぬという事実に、時間の線引きがあることを認識する」と捉えています。肺の治療経過の話を家族にした際にも、この話をしました。どこへ出しても恥ずかしくない妻は「私は明日交通事故になるかもしれないと思って日々生きてる」と仏様みたいなことを言い、高2の娘は「お父さんをがん患者じゃなく、お父さんとして見てるから」と涙を流して言います。


こんな感動的な言葉をかけてくれる家族があればこそ、彼らのために生き続けたいと思っています。


(佐藤剛己、患者本人)


JBTAでは皆様の体験談を募集しています。toiawase@jbta.orgまでご連絡ください。


書籍のご紹介

JBTA会員の方が作成された小冊子をご紹介します。


「白い影とともに〜脳腫瘍5年8ヶ月の記録〜」

著者:津嶋りえこ様


病気との出会いから、「自分らしく生きられる医療」を求めて試行錯誤を繰り返す中での様子や心の動きなどが、克明に記されています。悩みながらもご自身の生き方にしっかりと向き合っていらっしゃる姿が文脈から伝わってきます。

あくまで1つのケースではありますが、同じように脳腫瘍に関わっている皆さんの参考になると思います。


ご興味のある方には無料でお送りいたしますので、<toiawase@jbta.org>、または問合せフォームよりご連絡ください。

書籍のご紹介

JBTA会員の方が出版される書籍をご紹介します。


「春の香り 〜脳腫瘍と闘い、十八歳で逝ってしまった最愛の娘へ〜」

著者:坂野和歌子様、坂野貴宏様


闘病しながらの学生生活、夢を諦めず絵を描く姿、発作時の言動やその対処の様子など。父と母、それぞれの視点からの娘の闘病と介護の記録。


JBTAの交流会に、少しおしゃれをして、ご家族で参加してくださった時の場面も出てくるそうです。どんな時にも描くことが傍らにあった春香さんが描いたカバーの絵も、暖かみがあって心に響くものがあります。


病気としっかり向き合いながら、前向きに進んでいかれる姿は、脳腫瘍に関わる皆さんの力にもなるはずですので、ご興味のある方はぜひお手にとっていただければと思います。

坂野さんは「体験談 Vol.6」でもご自身の経験を綴ってくださっています。


※出版予定日は2022年8月1日です。

体験談 Vol.7

初めて判ったのは19歳の時です。地元の遊び仲間と別れた後、帰宅途中の電車内で突然、貧血のような激しい目眩に襲われたのです。幸いすぐに下車予定の駅に着き、ホームのベンチで暫く休むと症状は改善しましたが、初めての異変に、ただごとではない不安を覚えました。それですぐに地元の病院で検査を受け、説明を聞きました。「右前頭部に直径3cmの嚢胞があり、そこに水が溜っています。良性だし、すぐに治療する必要はないでしょう」。その言葉に私はホッとしました。「半年後にまた検査しましょう」。最後にそう言われ、安心して帰宅したことを覚えています。その後は平穏に過ごせたこともあり、私はいつしか検査のことを忘れ、そのまま病院へ行くことはありませんでした。


それから13年が経ったある日のことです。私は32歳になっていました。仕事中に突然、鼻血がダラダラと出始め、しかもなかなか止まりません。作業服は真っ赤に染まり、怖くなってその日は早退しました。その後鼻血は数回起こったあと治まったのですが、今度は突発的な嘔吐が始まります。私は慌てて胃腸科を尋ねますが原因はわからずじまい。結局、仕事を2ヶ月間休むことになりました。


療養中、暫くすると頭痛も起こり始めました。激痛ではなくコツコツと、バファリンを飲んでは治まる、そんな感じでした。それから左眼が見えづらくなり、平衡感覚も狂い始め、真っ直ぐ歩けず、自転車も自動車も運転出来ず、倦怠感、異常な眠気・・・と続いた為、13年振りに脳神経外科で検査を受け説明を聞きました。「右前頭部に直径6cmの腫瘍があります。良性と悪性が混じっているようで、初めて見るタイプです」。そう言われ、とても落胆しました。19歳のときに見つかった嚢胞(と診断されたもの)が、増大していたのです。あのとき半年後の検査をきちんと受け、その後も通院していれば・・・。続けて「別の施設で精密検査が必要」と紹介状を渡され、翌日検査を受けました。そして「右前頭部に直径6cmのグリオーマ。良性と悪性が半々混じっている。グレード4」と告げられ、そのまま入院することになったのです。あとで知ったのですが、腫瘍の大きさと性質から手術は難しい、と私の両親は説明を受けていたそうです。


入院2日目、私はカテーテル検査の最中に嘔吐し、意識不明に陥ります。そしてそのまま緊急手術へ移行したのですが、聴神経が腫瘍摘出経路に干渉していた為、一旦切断し腫瘍摘出後に繋ぎ合わせるなど難航しました。約12時間かけて腫瘍は95%摘出されましたが、術後は別の施設で化学療法と放射線治療の併用を始めることになりました。医師は私の両親に「治療をしても余命は半年から1年。転院までの1週間、本人に好きな事をやらせたほうが良いでしょう」と伝えたそうです。


転院先での治療は辛いものでした。放射線とテモダールの副作用によって脱毛、吐き気、食欲不振が続きました。また抵抗力維持の為にインターフェロンも使いましたが、副作用の発熱に悩まされました。そんな状況下、私は親を通じて勤め先へ退職の意を伝えます。

この頃は自分でもインターネットで調べ、そう長く生きられないことを覚悟していました。


治療に要した入院は約4ヶ月。入院後3ヶ月経ってようやく外泊許可が出ました。抵抗力が落ちていた為、病院で夕食を摂ったあと帰宅し、入浴後すぐ就寝。起床後、朝食を摂って病院へ戻る、という落ち着かないものでした。また体重も随分減りました。


退院後は自宅でテモダールを1年間服用。カプセルに嫌な臭いを感じ、投げ捨てたくなるほど辛かったです。制吐剤(プリンペラン)の効き目も今一つでした。


こうした辛い治療でしたが、ありがたいことに私には良い結果をもたらしました。余命1年と言われながら、何とかやり過ごし、術後10年が経った42歳のとき、主治医から初めて「寛解といっていい」と告げられたのです。


私は現在45歳になります。当初再検査を怠った事に心から後悔しましたが、今は病院まで片道2時間をかけ3ヶ月毎に診察を、半年毎にMRI検査を受けています。後遺症の顔面痙攣を抑える為に薬を毎日服用していますが、仕事も普通にこなし、また車も運転しています。私の経験と同じように、厳しい状況にある方も多いと思いますが、それでも好転することもあるということを、強くお伝えしたいです。


(兵庫県姫路市在住、鈴木健弘。患者本人)


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体験談 Vol.6

JBTA会員の方が記された、お子さんと過ごした大切な時間に関する記事が、世界対がんデーにあわせて朝日新聞に掲載されました。


「自分の思いを、同じ病気の人に伝えたい」と、お洒落をしてJBTA交流会にも参加してくださっていた春香さんですので、是非多くの方に読んでいただきたいと思います。


記事にも書かれている訪問入浴の時の写真と、満面の笑みの写真もあわせて、掲載をご快諾いただきましたので、ご紹介します。


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