体験談(2025)

体験談 Vol.11

この体験談は、異型性髄膜腫の診断を受けたひとりの患者の話で、同じ髄膜腫でグレードⅡと診断された方には、JBTAにも同じ仲間がいることを知っていただけたらと思い綴っています。

私は、都内在住の会社員。今年で50歳。

47歳の2023年4月、人間ドッグを受けました。

特にからだの異変はなかったのですが、頭部MRIのオプションをつけました。

2年経った今、思えば当時仕事で飛行機を利用したとき、離陸や着陸の際に呼吸がしづらくなる異変はあったのですが、忙しいのもあってか疲れているのかなと気にしませんでした。

『これは私の脳ですか?他の方の間違いではないですか』と問いただしました。左大脳円蓋部に8cm超の腫瘤が映っていました。ソフトボールくらいあるので、本来ある脳の中心(脳室)が横に押されて、脳はブーメランのように変形し本来あるシワがありませんでした。また、腫瘤には大きな血管が発達していました。

その日のうちに都内の大学病院へ受診し、外来受診した医師からは『腫瘍の大きさから早く切除しなければならない』と、即日入院。自分で脳腫瘍のことを調べる時間はありませんでした。

ただ、咄嗟に自分の状況を上司に電話していました。

上司は、職場のサポート体制をすぐに作ってくていました。

腫瘍が大きいので2回に分けての開頭手術計画でしたが、『腫瘍が柔らかく1回の開頭手術で全摘できました』と12時間を超える手術後、主治医から言われて安堵しました。

病棟からの窓の景色が明るく感じました。

視覚異常に気付いていなかったのだとわかりました。

頭痛(10スケールで6〜8程度)は続きました。とにかく痛い時はロキソプロフェンをお願いしました。

頭を下にすることはできないので、膝を曲げて物を取ったりしなければならないのは大変でした。

術後6日目、主治医から『異型性髄膜腫、グレードⅡ。

良性であるけど、MIB -1陽性』と。

頭痛もあり、記録するのが精一杯でしたが、通常、腫瘍は年0.5-1mmくらいの速度で大きくなるので、増殖能が高いタイプだから8cm超の腫瘍になったんだなと理解しました。

退院後は自宅療養しながら、特に行動範囲は自宅付近の散歩で付き添いが条件でした。

仕事は在宅で、1日の業務できる時間を少しずつ増やしていく設定にしました。

同年5月末、これまで経験したことのない激しい頭痛に襲われ、2回目の入院。

髄液検査し、髄膜炎疑いと診断され、静注の抗生剤点滴が始まりました。

抗生剤の副作用で、嘔吐や下痢が強く、食事は取れませんでした。計画した抗生剤治療も2週間程度で終わり、病理結果も陰性となり退院となリました。ただ、特定菌はわかりませんでした。

同年7月上旬、再び強い頭痛に襲われ、迷わず救急外来に受診。

髄液検査を行い、髄膜炎が疑われ、3回目の入院。

再び静脈抗生剤点滴療法が開始されました。

ロキソプロフェン内服も頭痛は続きました。

左側頭部の締め付ける様な『はり』も、37度の微熱も続きました。1週間で頭痛や発熱が落ち着きました。

外来フォローとなりましたが、『はり』の症状は毎日続きました。

仕事を長く続けると『はり』は強くなり、軽度な頭痛が生じました。

『揉み上げあたりまで開頭しているので、口を動かすことで、側頭筋の影響があるかも』と主治医からは言われますが、傷口を触ると痛いので少し違うかも。

『突っ張り感』という表現でお伝えもしたけど、『こればかりは慣れていくしかない』と。

仕事で飛行機に乗るけど大丈夫?『腫瘍摘出した際に空気が残っていたけど、今は全くないので大丈夫』と、同年10月に国内出張のため飛行機に乗りました。そのときは、左耳上あたりが少し痛くなりました。

同年11月末、早朝に左側頭部(耳の上)から液体(滲出液)が滴ってきました。

筋肉に炎症があるとのことで、膿みを押し出す処置を行ってもらいました。

皮膚表皮欠損で粘膜露出しており、即日入院(4回目)となりました。主治医からは、『頭蓋骨をとめているチタンプレート(星型のビスで可愛い)から膿みが出ている場合は、頭蓋骨内部に炎症が起きており、頭蓋骨が腐ってしまうため頭蓋骨を外すことに。そうでなければ、皮膚と筋肉を外して洗浄するだけになります』と。

翌日にオペ室に向かい、2度目の開頭手術となり3時間程度で終了しました。

激痛に襲われて、点滴での鎮痛処置をお願いしました。術後8日目に病理検査結果がわかり、『再発所見なく、肉芽腫の割合がほとんどで、炎症を引き起こした原因は分かりませんが、ブドウ球菌があるのでセファメジンの点滴治療を1週間続けましょう』となり、無事退院となりました。

同年12月下旬、滲出液の漏れをシャワーの時に感知し、数日おきに朝や夜に耳下まで滲出液のたれてくることが繰り返し起きました。1日2回朝夜の軟膏処置を自分で行い、新年を迎えました。

1月4日外来受診、とにかく傷口が塞がることを祈るばかり。

左側頭部の耳裏などに滲出液があるので、プヨプヨした感じがあり、押すと出てくるようで、皮膚の癒着が進むことで滲出液の溜まり場所も無くなってくる状況でした。

この頃、傷口の部分には肉芽腫が形成されてきており、それ自体は悪いことではなく、主治医は形成外科医とも相談してくださり様子を見ていくことになりました。

肉芽腫は1ヶ月くらいで表皮が覆っていき上皮化するのですが、なかなか上皮化には時間を要してしまい、2週に1回の通院が5月ごろまで続きました。衛生を保つためにガーゼ固定していたため、外出時はニット帽をかぶっていました。

QOLは低く、頻尿や覚醒も重なり睡眠が取れない毎日でした。

肉芽腫の部分は連日の軟膏処置を頑張った成果もあり、皮膚は上皮化し滲出液もなくなり、やっと日常生活が取り戻せる感じとなりました。

『はり時々頭痛』はほぼ毎日続いていますが、2年間続けてきた抗てんかん薬もようやく卒業、再発なく経過しています。

主治医から『髄膜腫の方々の多くは脳腫瘍の患者会に入ることもないし、ネットで検索しても情報がない。症状もひとぞれぞれで違う。僕でできることがあれば協力しますよ』と。仕事を続けながら色々な症状を経験しましたが、あまり無理せずゆっくり毎日を過ごせたらHAPPYかなと思います。

敬具


(保坂達彦、患者本人)


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体験談 Vol.10(前編)

私は4歳のときにpilocytic astrocytoma(毛様細胞性星細胞腫)を発症し、今年2025年で50歳を迎える患者です。腫瘍はまだ脳幹付近に残存しています。

同じような症状で苦しんでいる患者さん、ご家族、支援者の方々のご参考になればと思い、体験談を投稿いたします。

第一部は、2001年に小児がんの支援を行う大阪のNPO法人「エスビューロー」の機関誌に掲載された文章を簡略化したものです。25歳のときに書いた文章ですが、今は当時のみずみずしい記憶が失われてしまっているため、そのまま掲載しました。

第二部は、私が現在感じている脳腫瘍の晩期合併症について、受診や診断書作成のために

その都度書き溜めてきたものです。

33歳時の再発による3年間の抗がん剤治療、39歳時の水頭症悪化による3度目のシャント手術などを経て、25歳当時よりもかなり症状が悪化していると感じています。

皆さんの中にも、こうした症状のある方はいらっしゃるでしょうか。

脳腫瘍の後遺症は、周囲の人はもちろん、本人にとってもわかりづらく、伝わりにくいものが多いので、言語化することで共有できれば幸いです。

第一部 今までの歩み

今日この原稿を書いているのは、2000年の12月31日です。

僕は1975年3月10日に生まれたから、20世紀の最後の4分の1を生きてきたことになります。

その歩みを、今ここにまとめます。

発病当時のことはあまり覚えていませんが、母から断片的に聞いた話によると、最初に僕の異変に気づいたのは幼稚園の先生でした。4歳のときだったそうです。

くつ箱にくつを入れるとき、背伸びした足が震えていたというのです。

僕は歩くときに手をつなぐことが多く、動作も遅かったため、当初は何か心因的な反応だと思われていたようです。

小児科を受診したときも、最初は「発達」や「家庭環境」の問題かもしれないと考えられ、療育教室のような場所を紹介された聞いています。

この頃の記憶としては、おもらしをして母におしりをたたかれた場面があります。

別の日には、おもらしをしてパンツを換えてもらっている最中に病院から電話がかかってきて、母が深刻に話し込んでいる様子をよく覚えています。

それ以降、母はおもらしをしても絶対にたたかなくなりました。

また、病院にある絨毯敷きの部屋で、とても優しい先生と遊んだ記憶もありますが、先生と母が隅のほうで僕を眺めていたので、わずかな違和感がありました。

この部屋には2、3回通ったと思いますが、とても楽しく、次はいつ行けるのだろうと楽しみにしていたところ、そのまま行かなくなりました。

その後、脳神経外科に回されたと聞いています。

CTスキャンの結果、小脳に腫瘍が見つかりました。

1979年10月から翌年4月まで入院し、その間に2回の手術を受けました。入院で味わった恐怖と苦痛を今の僕はうまく表現できません。

もし適切な言葉を持っていたら、子供にとっての痛みや恐怖の大きさをもっと伝えられるのにと、歯がゆく感じます。

子供は大人と違い、体全体で痛みや恐怖を受け止めていると思います。

治療の苦痛に泣き叫ぶ子供の姿は、「子供だからしょうがない」のではなく、ありのままにその大きさの恐怖と苦痛を表現しているのです。

今でも、血だらけになりながら押さえつけられ何本も注射を打たれたこと、動かないようにベッドに縛られて苦しかったこと、手術の前の麻酔の甘いにおいなど、鮮明に思い出されます。


4月に退院した僕は、幼稚園の年少組をもう一度やることになりました。

つまり、同学年の子たちより1年遅れて義務教育を歩むことになったのです。

僕は小脳に障害があるため、運動は周りの子よりかなり苦手でした。

4歳のとき、幼稚園でみんなが音楽に合わせて「けんけん跳び」をしているとき、自分だけできずに絶望的な気分になったのを覚えています。

かけっこではいつもビリで、幼稚園児ながらそれを痛感していました。運動会のあと、友達に「たかちゃんがいるから白組負けたんだ!」と言われたことも、はっきりと覚えています。

男の子にとって、運動が下手だということは、大人の想像を超えるほど劣等感をもたらすものなのです。

5歳の頃、病院で再入院が必要だと言われ、母に負ぶさりながら泣き出した記憶がありますが、結局は直前で取りやめになりました。

6歳のとき、頭の前の部分が激しく痛み、嘔吐を繰り返すようになりました。病院でCTを撮ると頭に水が溜まっているとのことでした。

脳腫瘍になると、腫瘍が脳脊髄液の循環路を塞ぐため、脳室に水が溜まりやすいのです。すぐに脳室から腹腔まで管を入れるV-Pシャントの手術を受けました。

当時は薬の副作用でぶくぶく太り、退院後しばらくは車椅子を使っていました。

小学校に入学すると、体育の時間が非常に苦痛でした。

始まる前から気持ちが悪くなり、終わるまで不安と緊張で一杯でした。この感覚は高校を卒業するまでの間、体育があるたびに続きました。

加えて、水泳の時間では、V-Pシャントの手術痕がちょうどおへその上にあって、周りから見られないかいつも気が気ではありませんでした。

他の子どもから「きもちわり~」とか「さわらせて」とか言われると、何だか自分が崩れてしまいそうな感覚に襲われました。

小学2年生の秋に2カ月間入院することになりました。

定期検査で取り残した腫瘍が大きくなっていたからです。

自覚症状はありませんでしたが、12時間の大手術を受けました。

その後10年間は入院せず、半年に一度程度CT検査で経過観察をしていました。

小学校3年生くらいからは点滴への恐怖もだいぶ和らいだように思います。

小学5年生の頃、「自分は学年で一番劣った存在だ」と思い悩み、毎晩のように独りで泣いていました。

周りからは「小脳腫瘍なので運動はできないけど、勉強は普通にできる」と言われていたため、「運動が苦手なら勉強を誰よりも頑張らなくては」と一途に考えるようになりました。中学に入ると、その思いがさらに強まり、猛勉強するようになりました。

高校入試では受験勉強に多くの時間を費やしましたが、希望した公立高校には落ちてしまい、私立の男子校へ進学しました。

この学校は“学級崩壊”ともいえる状況で、僕は毎日緊張しながらいじめの標的にならないよう必死に過ごしていました。

結局3年間通いましたが、クラスメイトのほとんどが敵に見えていたのを覚えています。

制服の内ポケットにはいつもナイフを忍ばせていました。

高校3年の春、CT検査で腫瘍が大きくなっており、夏休みに入院して手術をしなければならないと告げられました。

幼いころの治療が大きな恐怖と共に心の中に焼き付いていたので,そのことが数ヵ月後に確実に起こると思うと,とても耐えられない気持ちでした。

受験勉強もしなければならないし、やりきれない思いでいっぱいでした。

こんな苦しみの日々の中で、たどり着いた結論は「自分への執着を絶つ」ことでした。

これからは同じように病気や障害で苦しむ人のために尽くす生き方をしたい、と決心し、その一歩として受験勉強に集中することにしました。

夏の入院でも手術後1週間を除いてはほぼ勉強をしていたものの、納得がいかず受験せずに浪人する道を選びました。

浪人時代は予備校に通わず、自宅で1日16~18時間勉強を続けました。

今から振り返ると非効率ですが、当時の自分には「がんばる」しか選択肢がなかったのです。

結果、山形大学の理学部生物学科に入学しました。

本当は国立大学の医学部を狙っていましたが届きませんでした。

親の手前もあり、生物学を学んで医学研究に携われるような知識を身につけたいと思ったのです。

大学1年の秋、手術では危険な部分に腫瘍が残っているということで、ガンマナイフという最新の治療を受けました。

当時はまだ保険適用外で130万円くらいかかりました。

頭を固定するために頭蓋骨にボルトをねじ込まねばならず、痛みで気が遠くなってしまいました。

大学時代にインターネットができ、初めて自分の病気について詳しく調べられるようになりました。

ショックな記述に出会うこともありましたが、自分を納得させるためには必要な作業だったのだと思います。

大学卒業後、大阪大学の医科学専攻修士課程に進学しました。

入学式翌日に実家のある東京に呼び戻され入院しました。

MRI検査の結果脳室に水が溜まっていたからです。

数日後に手術を受け、3週間ほどで退院しました。

医科学専攻では夏まで医学一般の講義を受けたのち精神医学の研究室に入り、自閉症に関する研究を始めました。

9月には、まだ残っている腫瘍に対して再度ガンマナイフ治療を受けました。

その頃は保険適用になり、麻酔も工夫されて痛みは前回ほどではありませんでした。

1年以上が経過しましたが、まだ腫瘍は残っており、3回以上のガンマナイフはできないということで経過観察を続けています。


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体験談 Vol.10(後編)

第二部 私の脳腫瘍及び水頭症治療による晩期合併症と思われる症状とそれに伴う社会生活上の困難

身体的症状

軽度の右半身麻痺と失調があり、体の右側は、錘が抜けたような感覚で、特に右上肢に振戦が生じます。

運動(特に微細運動)に困難を感じ、平衡感覚にも軽度の障害があるため、電車の中など不安定な場所で支えなしで立つのが難しいことがあります。

つまずいたときや押されたときに転びやすく、体を速く動かすのが苦手で、動作が遅れがちです。

体育の授業ではよくからかわれました。

左耳に重度の難聴があり、会話や左側の音が聞き取りにくく、雑音があるとその傾向が顕著になります。

右耳を下にして寝ていると目覚まし時計が聞こえないことが多いです。

軽度の右側同名半盲と視野狭窄があり、注目した数列の右端にある数字を見落とすことがあります。

見えていない部分を背景で補正してしまうこともあるようで、実際にはあるものを見落としてしまうこともあり、他人のペースに合わせて動くと衝突しそうになることがあります。

頻尿(睡眠時約3回、覚醒時約12回)による活動の制限が大きいです。

高次脳機能障害(器質性精神障害)に当たると思われる症状

1.認知的な処理速度、配分的注意、注意の切り替え、作業記憶の障害

(素早い反応や思考、複数のことを同時に処理すること、思考や気分を切り替えることの困難)

詳細: 自分のペースで行動できないときは著しく不注意になり、後になって信じられないような見落としに気づくことがあります。反応や仕事が遅く、周囲をイライラさせることも多いです。

人に急かされて緊張し、意識的に速く動こうとすると余計に体が動かず、相手をさらに怒らせるという悪循環に陥ります。

注意が一点に集中しがちで、物事を逐次的にしか処理できません。場の雰囲気を考慮しながら同時に発言するのが難しいときがあります。

一つの仕事をこなすのに長期間の準備を要することもあります。

テレビを見ているときに別の考えがよぎると、その間の場面が全く頭に入らないこともあります。

注意の向いていない情報が入ってきにくいです。

感情が大きく揺さぶられたあとは気分を引きずり、他のことが手につかなくなることがあります。

臨機応変に自分から動こうという意思(発想?)や次にやるべき動作が自動的に湧いてこないことが多いです。

メールを打つ時のような「予測変換機能」のようなものが障害されているみたいです。

つけいれられやすく、からかわれたり、意地悪されやすい。

訂正されても、なぜかそれまでの行動を続けてしまうこともあります。

2014年のV-Pシャント手術以降、こうした認知障害が一段と進行したようで、会話のスピードに付いていけないことが増えてきました。


2.手続き記憶の障害

(体で覚えること、物事に慣れていくことの困難)

詳細: 仕事の手順を教わってもなかなか身につかず、周りをイラつかせます。

いちいち考えながら手順書を確認しないと作業ができず、自動化しにくいようです。

イメージを体の動きに変換するのが苦手で、練習に長時間を要します。

同じ動作を頻回に経験しても初回並みに緊張し、「いつまでも初心者」のように感じます。

普段と違う予定があるだけで、いつものルーティンが抜け落ちることも多いです。

逆に、一度形成された手続き記憶を修正するのも難しく、キーボードのサイズが変わるだけで何年たってもミスタイプが続いています。


3.エピソード記憶、意味記憶、短期記憶の障害

詳細: 最近の出来事を思い出せないことが増え、過去20年ほど「過ごした実感」があまりありません。

30年前のことのほうが近くに感じることがあります。

2014年のシャント手術以降、漢字が想起しにくくなり、衝動的に違った漢字を書いてしまうことがあります。

今使っていた物を、ふと置いた直後にどこに置いたか思い出せなくなることがあります。

大きく感情を揺さぶられた出来事でも、翌日になると平凡な出来事と同じか、それより思い出しにくいときがあります。

ただし、「こういうことがあったよ」と言われればほぼ思い出せます。

思い出すときは対象となる記憶表象が直接は浮かばず、「昨日は何曜日だから、あの番組があって、その前はこうしていた」というように、遠回りしながら想起することが多いです。


4.視空間認知の障害

詳細: 道に迷いやすく、左右の判別をすぐにできません。

車幅感覚がつかめないため車の運転はできず、図などが曲がっていても気づかないことがあります。

文字が幼児のように拙くなることもあります。空間的関係をイメージしにくく、文章を読むときは一字一字頭の中で「音読」しなければならず時間がかかります。

あるものに注意を向けると周囲が見えなくなる傾向にあります。


5.会話の障害

(明確な発音、スムーズな言葉の表出、話を続けることの困難)

詳細: 発音が、ねっちゃり、もったり、躊躇しているようになるため、自分では明瞭に話しているつもりでも相手に聞きづらいことが多いです。

集団での会話では、間に自分の発言を挟むのが難しく、一対一の会話でも言葉がスムーズに出てこず相手に違和感を与えてしまいます。

書き言葉(継次処理)に比べて話し言葉(同時処理)は著しく苦手で、しゃべること自体に大きなエネルギーが必要と感じます。急いで話そうとすると焦って誤ったことを言ってしまうことがあります。

しゃべろうとすると、思考がブロックされたり、何についてしゃべっているのか途中でわからなくなって着地点を見失って焦ったりすることも多いです。


6.感情の障害(抑うつ気分、過剰な不安、内向性)

詳細: 対人的なことに強い不安を感じ、気分が沈むことが多いです。

過去の嫌なことを思い出しては引きずりがちで、悪い方向に考えやすい傾向があります。

実際に悪いことが起きやすいと感じますが、悪いことが実際には起こらず済んだ場合でも、起こった場合を考えて、いつまでも怖くなったり、腹が立ったりすることが多いです。


7.易疲労性

詳細: 精神的・身体的にすぐ疲れてしまいます。

徐々にというより、ある臨界点を超えると急にドスンと疲れることが多いです。

とくに他人のペースに合わせて仕事や会話をすると疲労感が強く、しゃべることや動くこと自体が努力を要します。

起床時から4時間くらいは、かなりだるく、いらいらします。

(なかはち、患者本人)


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